デフォルメとデタラメの違いについて、美術解剖学的に考えてみます。
デフォルメは難しい
漫画やアニメのキャラは当然ながら、人の形をそのまま描いていません。
女の子のキラッキラの瞳は顔の半分以上を占めていたりします。
でも、とても魅力的ですよね。あの瞳が私たちにくれるとびきりのワクワク感。
これがデフォルメです。
でもデフォルメって、本当はものすごく難しい。
形に対するセンスと、「視る人が何を美しいと感じるか」の感性が必要です。
楷書の文字をどんどん崩して、その人独自の美しい文字を編み出す難しさと同じです。
「あ」という文字は「あ」としての構造を持っています。
それを踏まえていれば、どんなにデフォルメしても「あ」と読むことができます。
もし、かたちを崩し過ぎて「お」のようになってしまったら、もうそれは「あ」ではありません。
でも、水茎の跡も麗しい草書の「いうえお」の中で、「あ」だけものっすごい丸文字だったら、どうでしょう。
丸文字は丸文字で、とても可愛くて魅力的ですが、完全に「あ」だけ浮いて、違和感がありますよね。
「あ」と読むことはできるけど、美しいとは言えません。全体のバランスが崩れっぱなしになるからです。
あくまでも「あ」としての構造は保持しつつ、全体のバランスも調えながら変形させる。
これがデフォルメの難しさです。
なぜデフォルメとデタラメを区別できないか
いや、私は何がなんでも「お」を「あ」とするぞ。これぞ自由な表現だ。
いや、メイリオの「いうえお」にして「あ」は勘亭流にする。これぞ革新的な表現だ。
なんて、言われても。「お」を「あ」とは読めないですし、字体はメイリオか勘亭流か、どちらでもいいけれど、統一してくれないと見た目が美しくないです。
統一感があれば、例えば前衛書のように相当かたちを崩していても美しいと思えます。
このように、文字だとデフォルメとデタラメの違いがすぐに分かるのに、人のかたちになるとそれらが途端に分からなくなる。
この現象は、一体何なのでしょうか。
キャラが腕を挙げているのに、肩甲骨が斜めになっていなければ、それはもう肩ではありません。
乳房はものすごく写実的なのに、鎖骨は一本線をヒョイっと引いているだけの絵は「手抜きだな」としか思えません。
ひらがなであればすぐに分かる違和感が、絵になると急に分からなくなります。
「自由」とか「革新的」とか「独特のクセ」という広告宣伝に影響されないように。
デフォルメとデタラメの違いが分からないのは、人のかたちと動きの構造をひらがなのように分かっていないからです。
思い出してみてください。「あ」を「あ」と読み、書けるようになったら、もう「お」は「あ」とは読めなくなりますよね。
それと同じように、例えば
「男性キャラなら、ヘソ下がこんなに長いはずはない」
「ここまで長いと女性みたいに見える」
と感じるようになります。
一旦そのような見方ができるようになると、もう元には戻れません。
ひらがなのように人体を捉えよう
まずは「あ」の構造を理解しましょう。
「あ」って結構難しいですよね。なんだか真ん中のあたりがぐちゃぐちゃしてます。
真ん中に「ぺけ」みたいなものがあって、「の」に斜め上から線を入れたようなかたちです。
最初に書く、上の「横棒」は、ちょっと下に凹んでいて、まっすぐ右に向かわずにちょっと上向に跳ね上がっています。
真ん中の線はまっすぐ下に行かずに、ちょっと右に向かっています。
最後のしっぽの部分、くるっと巻き払った線も少し下に向いています。
どこかの線は、必ずどこかから来て、どこかへ向かっています。この流れが調うと美しい「あ」の字になります。
人体の表面に現れる筋肉の線も全く同じです。
「起始」「停止」という言い方をしますが、必ずどこかから始まって、どこかへ向かっていきます。
それを間違えていると視る人は違和感を覚え、不快感につながります。
「起始」と「停止」はほとんど骨にありますので、骨がどのように体内に収まっているかで流れる線の方向が変わります。
また、骨は硬く、筋肉や皮膚のように柔軟にかたちを変えません。
位置は変わっても、骨そのもののかたちは堅牢です。
つまり、骨の様子こそが人体のかたちの構造の根幹をなすものになります。
たくさんの筋肉を覚えたとしても骨の様子を間違えると、全て台無しになります。
「あ」が「あ」でなくなるからです。
上の横棒を忘れるとかたちの歪んだ「め」みたいな代物になりますよね。
肩峰の収まるスペースを十分描けていないと、首からいきなり肩が生えたような見た目になります。
デフォルメとデタラメの境目はここです。
描き飛ばしてはいけない部分が、どうして「描き飛ばしてはいけないのか」を、をひらがなのように理解しましょう。