あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
私たちは絵の先生からよく「見たものをそのまま描けばいい」という指導を受けます。
皆さんもそのように先生から言われたことがありませんか?医学部の学生であれば解剖実習でもスケッチをすることがあるのですが、そこでも指導教官から同じようなことを言われることがあります。
「見えたものをそのまま描く」という言い方は、事実その通りなのですが、実は学習者にとって非常に誤解を招きやすい表現になっています。
「見る」とは、物体から反射された光を視神経が感受している状態なのですが、ここから後の情報処理が非常にややこしいのです。
あなたの視神経から情報を受け取った脳が「これは必要、これは不要」とふるいにかけてしまうんです。「ふるい」の基準はあなたが「意識的にも無意識的にも重要だと思っているもの」です。
「重要だと思っているもの」は前提として「それが何であるか知っているもの」なので、極端な話ではなく、知らないものは、なんと目の前にあっても見えないんです。しかも、一度見えたものでもそれが重要でないとあなたが判断したら、もう二度と見ません。ふるいにかけられたものは意識に上がってくることはありません。
なぜそのようなことが起こるのかというと、脳は非常に無精だからです。
脳が本当に100%の能力を発揮してしまうと、人間は一瞬で餓死してしまうらしいです。消化器官の進化が脳の進化について行けていないため、エネルギーを使い切ってしまわないよう脳に98%のブレーキをかけている状態です。そのために脳は非常に無精にならざるを得なくなっています。
これは有名な脳機能学者、苫米地英人博士のYouTube動画であった内容で、デッサンとは全く関連しない文脈での話でしたが、図らずもデッサンやスケッチを描く上で「見る」と「見える」がどう違うのかを非常に端的に説明しています。
認識がないと、目の前にあっても見えないことを、博士は以下のように例を上げて説明しています。
「机の上に携帯電話があったとしても、原始人には見えない。」
目の前に携帯電話を持っていき、わざわざ見せつければ見ることはできますが、単に机の上にあるだけなら、それが何なのかの認識がそもそもないので、原始人の眼には入らないのです。
この話は絵が上手くなる現象ととてもよく似ています。例えば人体がどのような構造になっているか、胚からどのように発達してきたかを認識していないと、モデルさんを観察してもそれらが見えないし、描けないのです。
逆に、それらを認識したうえで観察をすると、非常に深く鋭く、一瞥で大量の情報を受け取り、表現することができるようになります。
「見えたもの」とは、あなたの眼球が受け取った光の束のことではありません。あなたの脳が最初から認識していて、かつ重要であると判断したもののことです。
だからこそ、人間を描くときは美術解剖学が必要なのです。