8月29日 兵庫教育大学新長田キャンパスにて、STEAM教育のセミナーを開催した。
受講生に聞いてみた。
STEAM教育で言うARTはリベラル・アーツと定義されているが、ここでは敢えてファイン・アート限定として。
「なぜSTEMだけではなく、芸術を組み込まなければならないか、教えてください。」
そして予想通り出てくる「情操教育」「創造性」「自由な表現」「豊かな心を育む」・・・・・・。
いずれも芸術を語られる上で「っぽいもの」ばかりだ。
それは、仕方がないことかもしれない。そのようにしか教わっていないからだ。
「では、お伺いします。サイエンスや数学では創造性は養えないのでしょうか」
「芸術の世界では、自身の表現を追求するあまり、精神的に病んでしまう人がいます。これは豊かな心を育むことに役立っているでしょうか」
「皆さんのおっしゃっている内容で言うならば、STEMで十分賄えるのです。芸術である必要はありません。」
しかし、それでもなお、やはり絶対に芸術でなければならない理由。
それは「非言語」だからだ。
非言語ゆえに、膨大な情報量を一つ残らず、取りこぼすことなく、他者と共有する。
これは芸術でなければならない。他のSTEMはテキストベースなので、どうしても情報を削ぎ落としてしまう。
「緑色」と言う言葉を聞いて、あなたのイメージした緑色は、誰かがイメージした緑色とは異なる。
ある人々は芝生をイメージする。しかし、どの芝生もCMYK値がイコールにはならない。
あなたの心だけに浮かんだ緑色は、絵を描いて表現するしか他者と共有できないのである。
夏の晴れた日。雲ひとつない青空のもと、午前10時ごろ。昨日の雨粒がほんの少し残った、青々とした匂いの立ちこめる、野球場の芝生。
ここまで書いても、結局はテキストだ。私のイメージした色、それを選ばざるを得ない私の思い、経験の痕跡は決して他者には伝わらない。しかし、絵に描くと即座に伝わる。
だからこそ、副次的に芸術は心象風景を表すことになり、自己開示へとつながる。あくまでも、副次的に、だ。
芸術の本質=非言語 ということを理解した上でSTEAM教育を考えなければ、結局は「芸術不要」という誤謬に陥る。



