例えば数学を勉強するとして、三角関数が出てきたとします。
こんなの測量士になりたい人だけがやればいいんじゃないの?と思ったりします。
違いますよね。
三角関数という物事の考え方、
膨大でややこしくて、
一見解決不能と思われる難題を、シンプルな要素に分解・分析して
解決に導くコツを学ぶために三角関数をやるんです。
この考え方は、大人になって実は自分の身を守ってくれます。
芸術も同じです。
デッサンなんて職業アーティストになりたい人だけがやればいいんじゃないの?
と思ったりします。
困ったことに、また、無理もないのですが、
職業芸術家自身がそんなことを考えている節があります。
この「職業芸術家」という言葉自体がそもそもヘンテコで、
職業に結びつける、この世界で食っていけるかどうかを真っ先に考える。
それを最高位の価値判断の基準にする。
この考え方の癖は本当はどこから来ているのかについて、今のところ私にはわかりません。
しかし、注意深く見守る必要はある、と思っています。
職業芸術家の人によく見られるのが「AIが怖い」です。
納期があり、納品物がクライアントが求める水準以上であることが必要なのですから、
AIを使わない手はありません。AIはどこまでも便利に進化してしまうでしょう。
でも、それでいいと思います。
キーボードを叩くことと、ペンタブで描くことと、筆で絵の具を使って描くことは、
出来上がる作品の図像が全く同じでも、やっていることが「自分にとって」全く違うのですから、
「違うもの」です。
しかし、納期と納品物、その一方向でしか芸術を考えられなくなると
これはAIは恐ろしいかもしれません。
同時にその「恐怖」は芸術など学校教育で不要という考え方と、
ちょっと親和性があるのではないかと疑っています。
リベラルアーツとしての芸術の機能に対する視点がごっそり抜けているからです。
ダビンチが生きていたら絶対AIをガンガン使っていたと思います。
一方で、手を使って、ぐだぐだ手を汚しながら、絵を描くことも同時にしていたのではないでしょうか。