モデルさんとの対話
石膏像にはいろんな要素があって、明暗や形体、空間感を捉える練習台であるだけでなく
幾何学的な美しさや文化が育んだ様式美が備わっています。
それらを十分味わって、美の素養を身につける意味もあるんです。
何を以て美とするかは人それぞれですが、その礎がないと、そもそも美術なんてできないでしょう。
足がかりがないと、何を以て美とするか、そもそもそれさえ決めることができなくなります。
素養を身につけるとはそういうことです。
石膏像は白いですが、単純な白であっても、水平や垂直の違い、どこからの光を受けているかなどで、
温かい白、冷たい白、微妙な差が生まれます。それを見極める感性も養います。
また、どんな物でも塊として捉える感覚も養います。
例えば石膏デッサンをやっていない人は、髪の毛を描く時に線をシャーシャー引きます。
デッサンをやった人は髪の毛でも、薄いシルクでも、まず塊で描こうとします。
線を引く描き方しかできない人が感じられない量感の世界を、
石膏デッサンで訓練した人は感じることができるんです。
さらに、石膏像は生身の人体が教えてくれないことを教えてくれます。
生きているモデルさんを描くことは非常に貴重な体験ですが、
では石膏像がダメなのかといえばそんなことは決してありません。
なぜならば、誰かの手が加えられた作品としての人体の方が、
見るべきところ、強調すべきところ、省略すべきところなど、
作品としての強弱バランスを教えてくれるからです。
マルスの鎖骨が明瞭じゃないからアウト、なのではなく、鎖骨をあっさり表現することで
かえってどんな効果を生み出そうとし、作者はそれに成功しているのか、それを自分も感じ取れるか、
が大事になります。
立体の人物像は必ず幾何形体から作られます。
ビーナスもマルスも、どこから見ても
必ず幾何学的な美しさの秘訣があります。
単に見るだけなら、綺麗やなぁ、で終わってもいいけど、
作る人は、なんでこれは綺麗なのか、を見つけないとあきません。
石膏像の美しさがそうやってできていることを学ぶと、
世の中の全ての美しいものには、必ず造形的な根拠があると分かるんです。