私は総合大学の教育学部に身を置けたことは、幸運だったと思う。
高校時代、東京芸大彫刻科に現役で合格した先輩に聞いた。東京芸大ってどんなところなんですか?
「ああ、環境はすごいええけど、別に先生が教えてくれるわけでもないしな。ほっとかれる(放置される)で。自分次第やな。」
金沢芸大に行きたかったが、不合格だった。一浪して、画塾には行かず、普通の予備校に行かせてもらった。再びの受験までろくにデッサンを練習しなかった。
センター試験で英・国・社をほぼ満点取り、岡山大学教育学部、美術専攻の実技試験を受けた。
デッサンの練習をしていなかったが、とにかく基本に徹することだけを考えた。隣の席の学生がすごくうまい。ダメかと思った。
合格した。あっけないぐらい。あれ(実技試験の作品)の何が良かったんだろうと思った。
当時、岡大は前期日程。これに合格し、入学を決めたらその後のC日程の試験は受けることができない。
金沢芸大の芸術学部はC日程だった。どうしても受験したかったが、そのためには前期日程の合格を破棄しなければならない。C日程の試験に落ちればまた浪人生だ。
私の家にはそのような経済的余裕はない。ダメもとで母に頼んでみたが、逆にあきらめてほしいと頼まれた。
ご縁がなかったのだと思う。
総合大学も教育学部もどんなところかわからずに入学した。
岡山はとにかくよく晴れる。
いつ行っても晴れ。
神戸と違ってどこまでも平地だから、自転車で遠くまで行ける。
入学して初めて分かったが、絵だけ描いていてはダメなのだ。
まさか授業で体育があるなんて!まさか理数系の単位を取らないとダメなんて!
ああ、やっぱり芸大に行きたかったな…。と思っていたら。
面白い!教養課程が面白い。もちろん専門分野も面白いのだが、受験が終わって燃え尽き気味だった私にとっては、教養課程が面白くてたまらなかった。
シュレーディンガーの猫
利己的遺伝子
P波とS波
我是日本人。
芸術の歴史=「視る」の追究の歴史
こんなに面白いものが世の中にあったなんて!!
今ならわかる。教育学部というのは、その成り立ちからして最初から既に学際的で、専門分野に重きを置きながらも自己の知識を分野を超えて拡充していかなければならない。総合大学であればなおのこと。他学部の学生と親しくなり、そこでの話を聞き、単位に関係なければ教官の許可を得て授業に忍び込んだりした。
3年生の時、武蔵野美大を辞めて岡大に来た先輩に「ムサビってどんなところなんですか?」と聞いたら、
「ああ、環境はすごくいいよ。でも別に先生が教えてくれるわけでもないし。自分次第だね。」
東京芸大に行った先輩と全く同じことをおっしゃっていたので、笑った。
もし美大や芸大に行っていたら、私はどうなっていただろう。量子論の存在さえ知らなかったはずだ。
それも自分次第、とされていたら。
教養課程は現在、縮小傾向にあると聞く。勿体無い話だ。
絵が上手くなったとして、何を描くのか。絵を通じて、どんな物語を生み出すのか。
絵を描くというのは世界観を表現することだ。その世界観を培う基は教養しかない。
作詞者の松本隆は、学生時代、図書館の本を棚の端から端までをしらみつぶしに読んだという。
分野の好き嫌いを一旦傍に置き、浴びるように知識を吸収する時間こそが、その後の人生の矢を遠くまで飛ばしてくれる。
10年前、画家活動を再開した時に、やっと本当に私は教育学部に行ってよかったと思えた。