美術解剖学は何のため?
美術解剖学って何のためにあるんでしょうか。なぜ勉強する必要があるのでしょうか。
とても簡単で、同時にとても難しい問いだと思います。
ある人にとっては「モデルさん無しでも人物が思いのままに描けるようになるため」かもしれません。
また、別の人にとっては「より緻密な人体を作るため」かもしれません。
あくまでも私にとっての話になりますが、美術解剖学で最も大切なことは、
ヒトの身体に現れる独特のリズムを掴むことだと思います。
ヒトの身体は音楽のよう
それは単純にプロポーションの話ではありません。
格好をつけた言い方をすると、三次元で展開する可視化された音楽のようなものです。
では、そのリズムを掴んでどうしたいのか。そうなんです。リズムを掴むことは過程であり、
目的ではありません。
私は美術解剖学について誰かにお伝えするときは必ずこのように言います。
「皆さんの目的は美しいものを作ることであって、解剖学的に正しければ良いわけではないですよね」。
私にとっての美術解剖学
ここが誤解を招きやすいところ。解剖学的に正しいと、作られたものは非常に美しいものにはなります。
しかし、それを「作品」に仕上げていくには、作り手の世界観、「物語」が必要になってきます。
その物語こそが見る人を魅了し、誰よりも作り手自身をうっとりとさせるのだと思います。
話を戻しますが、ヒトの身体のリズムは空間から切り離されて存在していません。
その人自身の肉体に変化はなくとも、もし別の空間に置かれたならば、描き手は必ず
異なる雰囲気を感じ取るはずです。
あなたの姿を描くために
日本語にはそれを表す優れた言葉があります。
「姿」です。そう、私は人体を描きたいのではありません。
人体の格好をしていたら、誰でもいいからモデルさんになってもらうのでもありません。
私は「あなた」の「姿」を描きたい。
ある日ある時のあなたは、その時の空気、水蒸気、可視光線の中にしかいませんでした。
あなたの姿はあなたのみならず、あなたを取り巻く全てと共振してそこに存在していました。
それはすでにつかみどころのない「姿」と呼ばれる一種の現象としか言いようがありません。
私はその、一瞬垣間見た「姿」に、何か神秘的なものを感じるのです。
その人らしさのための美術解剖学
これが私の物語であり、それを絵として具現化するために美術解剖学を学んでいます。
逆を言えば、「その人らしくない」絵は美術解剖学的に正しくとも、私にとっては失敗です。
「その人らしさ」、つまり描いたモデルさんの姿でなければ、私自身がうっとりできないのです。
どこまでも画家は太陽の光を反射する月に徹するべきだと私は思います。