絵を描くことは、「ものが視える・ものを視るとはどういうことか」を追求する行為です。
もの「が視える」と、もの「を視る」は大きな隔たりがあります。
前者は受動的・客観的で、後者は能動的・主観的です。
絵を描くときはこの両方を無意識にやっています。
視えないものは「ない」のか。
視覚がものを捉える時に頼りにするのは当然「光」と「陰影」です。
このどちらかだけですと、ヒトはものが視えません。
デッサン的な言い方をすると「千差万別のグレートーンの中で私たちは生きている」と言えます。
どんなに真っ黒なものでも、「視える」ということは即ちグレーです。
これが物理法則の世界。客観性の世界です。
ところが、人は「感じる」ということができます。
「目には見えない。でも、どうしても『そのようにある』としか思えない」。
光学的に計測すると同じだけど、やっぱり何か違う。
こうとしか思えない、視えないということがあります。
視えたなら、描くしかない
それは存在が証明できないかもしれません。
あるいは時々、科学の進歩で存在が証明できたりします。
風そのものを視ることはできなくても、そよぐススキの煌めく波を見た時、風の形が視えます。
何か別のものを頼りに現れては消え、を繰り返したりもします。
わからない。でも何かあるような、そんな予感。
この「わからない」というところに面白みや深み、美しさ、神秘性…。
人が今日より明日をより良くしていこうとする力の源泉があるのでは、と思っています。
科学の証明を待たなくとも、視てしまったものならば「ある」のだし、
絵はどこまでも視えたものを描くことだと思うのです。
そしてこの辺りから、「視える」が「視る」という能動性を帯びてくるのですが、
描いている本人は一向に気づいていません。
形にならないものを形にしてみる
よく私は「絵を描くとはどういうことか」という問いに対して
「自分だけが見てしまった幽霊を一生懸命、誰かに説明しようとするのと似ている」とお答えしています。
幽霊と言うと禍々しいイメージがありますが、「観音様」「オーラ」「桃源郷」何でもいいです。
では「視えなければ描かないのか」と問われれば、描きませんし、描けません。
その一方で視えた時は、何故か他の感覚も参加し出すのがまた面白いところ。
ノってくる、と申しましょうか。良い香りがしたり、和音が響いたり、踊りながら描いたりします。
側から見るとだいぶんアブナイ人です。
視えたものをそのまま絵のタイトルにしたりもします。
今回の「二人の美術解剖学展」で出品した油絵のうち、左の絵は「楽園、そこに在り」、右の絵は「Gm7」というタイトルです。
「Gm7」の方は真っ黒に見えますが、実はコバルトバイオレットの煙のようなものがモヤモヤと立ち込めています。
そのようなものが視えた気がする、いかにもそのような姿だった、としか言いようがありません。
そして撮影すると全然写りません。
間近で見ても、ある角度からは見え、別の角度からはモヤモヤが全く見えません。
ホームページでお見せするには何とも厄介な絵に仕上がりましたが、図らずも私の普段感じている
「リアル」を表してくれている、ベンチマークのような作品となりました。